小宮:翻訳にあたって

訳者それぞれでこの本の翻訳に関わった想いはさまざまだと思いますが、私の個人的な考えは以下のとおりです。

この本のテーマは「表現の自由を守ることと、レイシズムに抗することのあいだでどうバランスを取るか」です。けれど、この問いに対する答えは、この本には書いてありません。この本のメッセージはむしろ、「どうバランスを取るか」は、当該コミュニティの歴史的・社会的文脈を考慮に入れながら、コミュニティのメンバーが決める責任を負っている、ということです。

この本に書いてあるのは、ヘイトスピーチ規制に関するヨーロッパ諸国やアメリカの歴史と状況です。ヨーロッパ諸国はヘイトスピーチ規制に積極的ですが、この本ではその態度が、過去のファシズム(とりわけホロコースト)への反省にもとづきつつ、しかし「すべり坂」を転がるのではなく、ゆっくりとした歩みで進んできたことが述べられています。

他方アメリカは「表現の自由」絶対主義のように思われがちですが、じつは表現規制に積極的だった歴史を持ち、「表現の自由」への深いコミットメントはむしろ公民権運動の中で、差別に抗するために生まれてきた側面があることが述べられています。

「答え」は書いていなくても、ヨーロッパ諸国やアメリカのこうした事情のうちに、私たちはいくつかの考察すべき点を見いだすことができると思います。

ひとつには、ヨーロッパ的なヘイトスピーチ規制を考えるとき、そこではその発言がなぜ、どのような意味で「悪い」のかということについての考察が不可欠になるだろうということです。たとえばナチスの経験を考慮に入れることは、ユダヤ人に対する差別的発言に対してきわめて重大な「悪さ」を付与します。ホロコースト否定を法的に禁止することが正当化できるのは、その歴史的文脈の考慮なくしてはありえないでしょう。

同様に日本の場合で言えば、在日コリアンへのヘイトスピーチの「悪さ」を考えるとき、植民地支配の歴史と日本における歴史修正主義の問題を考慮に入れることは、きわめて重要な意味をもつはずです。

もうひとつは、アメリカ的に「表現の自由」を擁護するとしても、それはヘイトスピーチを放っておくことを意味しないということです。公民権運動の中で「表現の自由」が反差別の闘いの道具として使われたように、規制に反対するならばむしろそのときにこそ、「その自由を使っていかに闘うのか」が強く問われることになるでしょう。


いずれにしても、日本の文脈の中でどうすべきかを議論し、決めてゆく責任が、この社会のメンバーである私たちにはあります。決して一朝一夕に考えることはできないその問いについて考えるための最初の入口を、この本は提供してくれるのではないかと思います。